3-1 ケーススタディ~ゆにじゅ~創設物語(上)

これからの柔道の指導者や柔道クラブのあり方について、発達障害があってもなくても柔道ができる環境をつくるため、愛媛県四国中央市にて「ユニバーサル柔道アカデミー」(ゆにじゅ~)を設立した長野敏秀先生の事例をもとに考えます。

<目次>
ゆにじゅ~創設物語1~選手として柔道から学んだこと~(※今回)
ゆにじゅ~創設物語2~指導者として危機に直面~
ゆにじゅ~創設物語3~ゆにじゅ~の実践~

1.人生に必要なことは、遊びから学んだ!

みなさんは、幼い頃どんな「遊び」をしていましたか?今思えば、私の運動能力は幼い頃の「遊び」によって培われたのではないかと思うんです。

私の故郷は、愛媛県の四国中央市という人口9万人弱ほどのまちです。平成16年の市町村合併以降、紙・紙パルプ製品の出荷額が連続して日本一の紙のまちで、有名な企業では大王製紙やユニチャームなどがあります。そういった紙産業に支えられた工業都市ですが、お茶や里芋などの栽培も盛んで、豊かな自然もたくさん残っています。私が育った地域は、農業を兼業で行う家庭が多く、家の周りには多くの田畑が広がるのどかなまちで、昭和48年、第二次ベビーブームの時代に生まれたこともあり、近所には、同年代の子供達がたくさんいた上、4つ上の兄、2つ上の姉がいましたので、近所では、さまざまな年齢の子供たちといろいろな遊びを楽しんでいました。

子どもの「遊び」には、まず「安全性の確保」が重要ですが、特に稲刈り後の田んぼは、安全性の高さとともに、子ども達が「遊び」を通して運動能力を高めるのに非常に優れた環境でした。まず、地面は走れるくらいの硬さではあるものの、転んでも痛くない、なんとも言えないふっくらした柔らかさや温かさがありケガをしにくい。周りには、危険なものがなく見晴らしもよい。遠くから親の目や声も届くなど、非常に高い安全性が確保されていて、更には、稲の切り株で足を取られるものの、それを回避する体のコントロールでバランス感覚や俊敏性が自然に高められたり体幹を鍛えられたのではないかと思います。

そして、異年齢の人たちと一緒に遊ぶことで、そこで過ごすためのルールを覚えたり、お兄さんやお姉さんの上手な動きを真似たり、時には教わったり、教えたり、負けて悔しい思いをしても、怒られる訳ではないので、何度でも挑戦できる。いわゆる体育会系ではなく「年上が守り、年下は慕う」といった自然な上下関係ができたり、柔道でいう三様の練習がそこにはあったのではないかと思います。また、今でいう発達に特性のある子もない子も、そのような環境の中では、特性が目立ちにくく、更には、それぞれのペースでコミュニケーションを学んだのではないかと思います。

ちなみに、人間が誕生してから成熟期までの発達量を「スキャモンの発達発育曲線」で、分かりやすく示されていますが、特に幼児期から小学低学年の時期に脳や神経系は著しく発達し、小学高学年の頃には、成熟期と言われる20歳とほぼ同じレベルにまで達することが分かっています。繰り返しになりますが、今思えば、私の運動能力とコミュニケーションの基礎は、まさにこの環境で培われたのではないかと思っています。

もちろん、個人差はあるにせよ、将来トップアスリートを目指す場合も、生涯に渡って運動と楽しく係わりながら健康的な体を手に入れようとする場合にも、適度な運動を習慣化させ勉強や仕事の効率をあげたり、ストレスを解消したりする場合にも、はたまた発達の遅れを補い同世代の子供たちと楽しく触れ合うことを目的とする場合にも、この頃に子供達が「遊び」を通して「運動」をすることや、様々なことを「学ぶ」こと、つまり、挑戦することや異年齢のコミュニティの中で守り守られ、慕い慕われながらコミュニケーションを図ることは、成長過程において非常に大切なことであると思うのです。そういった意味からも幼い頃の柔道は、「遊び」を通して「柔道好き」の心を育み、失敗させないことではなく、失敗しても何度でも挑戦できる気持ちや行動を認める場となり、道場という異年齢が集まるコミュニティとして存在し、小さな成功体験とトラブルの解決により、心身の成長とコミュニケーションスキルを学ぶことができるような「みんなの居場所」が求められているのではないかと思うのです。

2.柔道は「大切なもの」だけど「好きなもの」ではないことへの違和感

さて、ここで質問です。「あなたは、何のために柔道(指導等)をしていますか?」

ちなみに、私がコーチをさせてもらっている松山大学柔道部で、学生に対して同じ質問をしたところ、「強くなるため」「就職のため」「礼儀を身につけるため」「仲間をつくるため」「自分の可能性を広げるため」「大学生活を充実させるため」「お世話になった人に恩返しするため」「楽しいから」「子供の頃から続けているから」「大人になるため」「社会へ貢献するため」といった様々な答えが返ってきました。それぞれ、柔道をやることに何かしらの意味づけをしている(正しくは、その時絞りだした?)なか、ある学生からは、いたって真面目に「・・・考えたことがありません。」という答えが返ってきました。まあ、その頃の自分を振り返ってみても「柔道は何のためにやるのか」を自信をもって言葉にできることはなかったのではないかと思いますし、さまざまな目的があっていいと思います。

ただ、柔道に関わっている以上、少なくとも嘉納先生の遺訓「精力善用・自他共栄」は、共通の理念として持つ必要があるのではないかと思うんです。でも、私を含め多くの指導者は、この意味を教えたり伝えたりしてこなかったのではないかと思います。私自身を振り返ると学生時代の「恩師」から様々な場面で、この理念を学ばせてもらったお陰で、今、私の人生における普遍の原理原則になっており、何か困った時にはこれを指針として判断をしたり、修正したり、乗り越えたりするよう心掛けることで、これまでの人生が豊かなものになっていることを感じます。その考え方を根付かせて下さった「恩師」そして「柔道」に心から感謝しています。

では、「あなたにとって柔道とはどんなものですか?」と聞かれた時、みなさんならどのように答えますか?先に述べた通り、私にとって柔道は「人生の指針であり、かけがえのない大切なもの」です。ただ・・・「大好きなもの!」ではないのです。

私が柔道を始めたのは、地元の柔道会で役員をしていた祖父の勧めで、小学2年生の時ですが、柔道を続ける過程で、大人たちからよく聞かれて嫌だなあって思っていた質問がありました。それは・・・「柔道は好きか?」という質問です。2月生まれですが、幼い頃から体格に恵まれ、指導者の教え方が良かったのか、運が良かったのか、柔道という競技自体があっていたのか、はたまた運動能力が高かったからなのかはわかりませんが、はじめて間もない地域の大会で優勝してからは、出場する大会でほぼ入賞するような選手で「勝つ」という経験は早い段階で経験させてもらいました。そんな私に大人の人が聞くんです「柔道は好きか?」って・・・。試合に勝てるから楽しいはずだよね!みたいな質問に対して、「う~ん・・・」的な、なんだか歯切れの悪い回答しかできず、「え?そうなの?」と驚かれることが多々あり、子どもながらに、勝つこと?への変な違和感みたいなものを感じていましたね・・・。

振り返ると、当時は、高度経済成長期という時代背景の影響もあり、柔道にはそんな社会で生き抜くための厳しさと規律や量をこなせる根性?みたいなものが求められていたように思います。もともとは、のんびりした性格なので、そのなんだか無理やりに矯正させられるような感覚に、素直に「柔道が大好き!」と言えるような感情が、これまで芽生えることはありませんでした。今思えば、子供ながらに半端のない量を強いられる練習は、やりたいものではなくやらされるものでしたので、高学年になり小学校で水泳や陸上の練習がある時期には、精神的にも体力的にもきつく、何度か「柔道を辞めたい」と思ったこともありましたし、実際に「辞めたい」と言ったこともありました。でも、指導者の情熱や愛情みたいなものは子供ながらに感じていましたし、指導者や仲間たちからの「お前が必要なんだよ!」という言葉でつなぎ留められ、更には、柔道の厳しさが自分を律してくれているような感覚はありましたので、「柔道は好きなものではないけど、大切なもの」として自分の中に受入れることで、長く柔道を続けることができたのではないかと思います。

そして、厳しくも熱心に指導してくれた先生方のおかげで、小学6年生の時には、愛媛県少年柔道錬成大会という県内では最も大きな大会で、所属していた柔道会が発足以来はじめて団体優勝を果たし、個人では3位の成績を収めることができるなど、順調に成功体験を積み重ねさせてもらいましたので、柔道は私の特技として中学校でも続けるのは当然の感覚でした。

3.柔道は学校生活プラスアルファの中学・高校時代

そうなると、指導者としては、中学校でも団体優勝させて全国大会を目指す!という目標を持つのは当たり前で、当時のメンバーや先輩のほとんどが通う校区の中学校に、校区外の私も通うようにと促されましたが、当時の担任の先生に相談したところ、前例がなかったということもあったのでしょうが、中学校に行く本分を間違えていないか?ということで、あまり良い顔をされず、また、それを押し切ってまで進めるほどの強い意志は私にはなく、結局、校区内の中学校に通うことになりました。

中学校の柔道部では、小学生で柔道を経験しているものはほとんどいないうえ、柔道をほとんど知らない先生が顧問につくのが当たり前の学校で、練習メニューは基本的にキャプテンが考えて行うといった環境でした。先輩が経験のある私に練習内容や技術についてアドバイスを求めてくれること、試合になると私に期待を寄せてくれることがなんだか居心地がよく、振り返ると、この環境が、何かに積極的に挑戦したり、新しいことを創造したり工夫したりといった考え方を芽生えさせてくれた大切な時期であったように思うのです。チームは経験者の私が入ることで、勝利に結びつくことが増え、私自身もチームに貢献できていることへのやりがいを感じ、当時でいう番各の先輩方が多く柔道部に所属していましたが、そのおかげで大変可愛がってもらったことを覚えています。また、その頃は、チームの仲間と海に行ったり山に行ったりと交友を深める機会もあり、そのチームならではの役割や充実感を感じていました。

また、部活動以外でも生徒会長という大役を任されることとなりました。先生と一緒に学校運営について考えていく・・・実際の仕事以上に、みんなが(特に先生方が)イメージする生徒会長像に思春期の自分を合わせていくことが、しんどい時期がありましたが、当時の周りのサポートもありなんとか役目を終えることができた・・・というのが振り返っての感想ですね。ただ、この経験も私の中で非常に大きな糧になっていることは間違いなく、当時、サポートしてくれた親や先生には、本当に感謝しています。

さて、柔道の話に戻りますが、中学3年生の総体では愛媛県で3位という結果に終わったものの、強豪校からのお誘いもいただけるなど、それなりの力をつけてきた私でしたが、厳しさへのトラウマからか強豪校で柔道を続ける自信や頂点を目指すことへの興味が沸かず、結果地元の公立高校に進学することとなります。ここでは、中学校以上に顧問は柔道を知らず、顔を出すことも少ない中で、まさに生徒が自主的に練習をする環境で、先輩達が試行錯誤しながら練習を工夫したり出場選手を考えたりと、高校生が自らマネジメントを行なっていることに、何か「大人だな~」的な感覚を覚え、いつか自分もこのようにチームのことや試合や練習のことを考え、判断させてもらえるような時がくるのかとワクワクしたことを覚えています。

また、小学校の時に一緒に少年柔道に取り組んだ仲間とも同じチームとなり、学校生活と部活動、そしてそれなりの恋愛なども経験する高校時代を送りました。高校3年生のインターハイ予選では、小学校・中学校時代に全く歯が立たなかった相手にあと一歩のところで敗れ3位という結果であったものの、この頃から柔道にもっと取組んでみたいとの思いが芽生え始め、指定校推薦という形で中四国の雄と言われていた松山大学に進学することになります。

4.環境の変化に苦しみ、育てられた大学柔道

少年柔道こそ厳しい環境で柔道を行ってきたものの、中学・高校時代はほぼ独学と感覚で取組んできた私にとって、大学での柔道はかなりしんどいものでした。これまで特に上下関係を厳しく教え込まれてきた経験のない私にとって、先生や先輩への気遣いや気配り、その順番やあいさつの仕方、さまざまな縦社会のルールに順応するのにやや時間がかかったのは、なんとなく創造できるのではないでしょうか。更には、早朝トレーニングに始まり、高専柔道を継承する伝統の寝技練習では、まさにボロ雑巾のごとくやられ。当たり前ですが強い先輩方との日々の練習は、体力的にかなりハードでしたね。でも、一日一日が必死でしたが充実感はありました。また、幸運なことに1回生からレギュラーとして、中国四国学生団体優勝大会にも使っていただき、チームメイトや諸先輩、諸先生、そしてたくさんのOBがこの試合にかける熱い思いを感じながら、今までに味わったことのない感覚で必死で戦ったことを覚えています。試合は準決勝戦で敗れ、全国大会の切符こそ得たものの、前年度優勝からの敗戦に多くの先輩方が悔し涙を流しているのを目の当たりにし、柔道は、こんなに人の心を揺さぶるものなんだと感じましたね。なんか、大学柔道っていいなぁ・・・そんな感覚がその時の正直な感想です。

私にとっての転機は、大学2回生です。それまで監督をしていただいていたOBで愛媛県警の加藤陸大先生は、異動で松山を離れることとなり、次に監督に就任されたのが、当時愛光学園の教諭で柔道部監督(現在:鹿屋体育大学教授)兼松山大学柔道部コーチでありました濱田初幸先生でした。ご存知の方も多いと思いますが、先生は、歴代のOBの中でも、現役時代に最も世界チャンピオンに近いところまで行かれた方で、柔道に関しては非常にストイックで、柔道に関しては自分にも他人にも非常に厳しい方です。そして、この先生との出会いが、その後の私の柔道人生を大きく左右することになります。

これまで大したタイトルのなかった私でしたが、大学1年生で20歳以下の全日本ジュニア四国予選で優勝し初めて全国大会を経験。大学2年でも連覇し順調に成果を収め周りからの期待も感じつつも、監督から求められる更に高い目標や姿勢、そして新たな方針をなかなか受け入れることができず、大学2年の冬に風邪をこじらせ気管支炎となったのをきっかけに、しばらく道場に行けなくなってしまいます。熱こそ下がったものの柔道が再開できるような体調や気持ちにはなかなかならず、それを心配してくれた監督からは、実家に戻っての療養を勧められ、実家に戻り精密検査を受けても特に異常はなく、とは言えすぐに戻る気持ちになれず、結局1カ月以上実家で過ごすことになりました。これで、後に「脱走兵」と語られることとなるのです。

そんな時、長年松山大学柔道部監督として現在の礎を築かれた師範の八木隣一先生の訃報の知らせがありました。葬儀への参列も少し躊躇しましたが、お世話になった方とのお別れだけは・・・と思い、久しぶりに松山へと向かいました。葬儀では、久しぶりに会う方々から声をかけていただき、もう一度柔道部に戻る気持ちときっかけをもらい、師範の八木先生が私を引き戻してくれたのかなぁと、不思議な縁みたいなものを感じています。

5.人生は、育ててくれた柔道への恩返し

柔道部に再び戻るきっかっけをもらった私は、練習から離脱し迷惑をかけてしまった部への後ろめたさを、練習に全力で取り組むことで払拭しようと、日々必死でした。ただ、まさに充電してきたかのように体調もよく、体はよく動き、誰かにやらされるのではなく、自分がやらなければと強く意識しての練習でしたので、非常に充実感がありました。そんな姿を見てか、少しづつ仲間や先輩達との距離が近くなっていくのを感じ、少しずつ仲間たちとの壁を崩すことがでいているという感覚がありました。・・・が、そう甘くないのが柔道なんですね。

練習に戻って2週間後くらいには、広島で大会が予定されており、補員にエントリーされていた私は、メンバーの負傷により急遽大会に出場することになりました。まあ、練習ではかなり動けてましたので、いけそうかな!と思っていたのですが、いざ試合では、まったく自分の柔道ができず、そんな自分に苛立ち、それが試合態度にも出てしまったりと、まったくチームに貢献できていない自分がいるんです。まさに、試合は練習で積み重ねてきたものの試し合い!積み重ねを怠った私の柔道は、ここで深い反省のきっかけを得ます。大会後、帰りのフェリーの中で隣に座って話をして下さった監督の言葉のひとつひとつが、深く心にしみわたり、心理学でいうと「承認欲求」から「自己実現欲求」へとチェンジした瞬間だったのではないかと思います。

そこからは、監督の言うこともありがたいアドバイスとして受け入れることができ、まさに誰に言われる訳ではない「内的動機づけ」による練習を積み重ねられるようになった結果、いくつかケガも抱えながらも4回生ではキャプテンにしていただき、大きな目標であった中国四国学生柔道優勝大会での団体優勝を、濱田監督の初優勝としてプレゼントすることができました。また、個人でも無差別で優勝、体重別では2連覇と数々の成功体験を経験させてもらい、自分の中に「柔道による成長」を実感することができました。苦しめられたのも柔道でしたが、それも含めて成長させてくれたのも柔道で、今もなお柔道に携わり続けているのは、そんな「柔道への恩返し」が原動力となっているからなのです。

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP